本日は喜びのお電話をいただきました!
「先日、外反母趾の施術をしていただいてから大山のキリン峠の登山に行ってきたんです!そしたらね、全然痛くないの!いつもは親指が痛いから小指側に体重がかかってしまって登山を終えたら右足の小指が赤く腫れ上がるのが当たり前なんだけど、まったくなんともないの!いつも足が痛くなるから靴屋さんで特別なインソールも作ってもらっていても痛かったのに今回は全く何ともないの!足の親指にちゃんと力が入るから山を登る時に内転筋の力もちゃんと使えてすごく登りやすかったし!波動とか氣功って何なのかしら?本当に不思議!足の親指はまだ曲がってるのよ。でも全然痛くないの。不思議よねぇ〜。」
登山の喜びのご報告、本当にありがたいですね。足の指が曲がったままなのに痛みが全くなくなっている。これは不思議ですよね。「証明は出来ませんが…」と前置きした上で「キルリアン写真」を例に出して説明させていただきました。
証明ができないので保険が効きません(苦笑)。自費施術における触れないもの(I M)は果たして「施術」と言って良いのか「舞・踊」というべきなのか、表現が難しいところです。
ただ、量子力学や水の研究、意識や氣やエネルギーと行ったものに対する学問的な研究と日々の実践。それらを総合して考えると「不思議」ではないということはわかってきました。起こるべくして起こっているということがわかってきました。目に見えない可視光線の範囲外での現象なので感じていただくか、結果を見ていただくしか方法がありません。日々の「不思議(とされる現象)」をこのブログでもシリーズとして紹介可能なものに限り一部紹介をさせていただいておりますが、どこに行っても変化しなかったものが一氣に変化するということも事実として起こっています。日々の研究、そして肉体の鍛錬あるのみですね。肉体の鍛錬とともに精神の鍛錬も大いに影響していますね。何のために鍛錬するのかという部分が大切で、それが肉体と精神をちゃんと繋いでいくということも理解することが波動そのものに影響する。本当に奥の深い分野です。
中国の達人などは「○○を一瞬で変化させる!」というような話を聞いたりすると、「そんな馬鹿なことがあるわけない。」と以前は思っていましたが、実際目の前でそのような現象が頻発し始めると「あるんだろうな。多分こうやっているのだろうな。」と考え方が変容してきています。後は本当に実践のみ。
今、確実に言えることは「素直」というのは人間に備わった「宝」であるということ。本来言葉にできる類のものではありません。辞書に書いてある「素直」の意味など言えなくとも、身体の中にそれがどのような状態であるのか。キラキラ輝いているのか、曇っているのか、無くなっているのか。この宝の存在は奇跡(のように見えること)を起こすための必須条件と言ってもいいのではないかと個人的には思っています。中学生の運動選手に対する施術でこちらも驚くようなことが頻発するのはおそらくこの「宝」のせいです。もちろん、臨床経験における事実に基づいた感想です。
奇跡は数が少ないから奇跡というだけで、おそらく江戸時代なんかはこんなことは普通に起こっていたのではないかと思います。江戸時代と今。様々なことを学んだ上で何が違うのか考えてみると、答えは日常に転がっていますね。奇跡が起こっているのではない。宝を失っている人が増えている。もっと正確にいうと知らぬ間に宝を失わされるようになっている。これは言い切っておきましょう。
痛いの痛いのとんでいけ。
何でこんな言葉がいまだに残っているんですか?
実際に痛いのが飛んで行った人が過去にたくさんいたからこの言葉が残っているんです。
飛んでいくのが当たり前だったはずなんです。飛んでいかない場合はその理由を探してみると、本当の健康とは何かということが見えてきますよ。飛んで行ったら困る人も世の中には存在する。そんな人は何をするだろう?そんな人が多ければ多いほど飛んでいかない人も増えてくる。この本質的な部分に氣がついているかどうか。様々な視点で自分の身の回りを観察してみましょう。