今日は月に1~2回、身体の調整に来院されているAさんとのやり取りの一部から。
Aさん「先生、この2週間の間に、また面白い患者さんが来られましたか?」
院長「○○の症状が消えた話はしましたっけ?」
Aさん「○○?それは聞いてないです。」
院長「この前ね・・・」
こんな感じの会話は当院ではよくなされます(個人情報は当然伏せた上で)。当院は意識施術で症状が変化することを実感された方が怪我の治癒後にも身体の調整のために定期的に通われるパターンが少なくありません。調整方法はそれぞれで、意識施術、ハイチャージ、パーソナルトレーニング、美顔施術など、ご希望の内容を希望されてご予約をいただきます。
このAさんも以前、自宅の階段から転げ落ちて激しい足首の捻挫をされたことがあり、その時の施術の際に超人的な変化を見せて下さった事があるので「あんなこともありましたねぇ…」という話をしていたら
Aさん「あの時は職場の人がビックリしてたもんね。施術を受けた翌日に仕事に行ったら『そんな色の足首なのに、歩いて大丈夫なの?痛くないの?』って凄く心配されました。」
院長「そう言われてましたよね。」
Aさん「『ほれ。』ってジャンプして見せたらもっと驚かれました。」
院長「私も施術直後にいきなりジャンプをされた時は正直『肝が冷える』って感じでした。」などとお話していたら
「まあ、怪我したときは自分の身体は変化すると思ってここには来させていただいているんで。」と一言。そして
「予約させていただいた段階で身体の変化が進んでいるのかもしれませんね。実際に予約が取れたら『よっしゃ、いける。』と思ってますもん。」とも。本当に有難いお言葉です。
やはり、「自然治癒力に対する確信」。これは大切な感覚なのだと思います。自分の自然治癒力の存在をちゃんと受け入れる。これが出来ている方は施術を受けられる前の段階ですでに身体が元に戻ろうとする力が存分に発揮されている。そんな感じなんだろうなぁ~と改めて思いました。
その後来院されたBさんご夫妻も、隔週で定期的にパーソナルトレーニングに来られている超仲良しご夫婦。身体の軸を安定させる筋肉に負荷がかかるメニューを継続して行う事で、だんだんと身体が安定してきました。「きっつぅ~!」と仰りながらも「前回は出来なかった運動が出来るようになっている」というご自身の身体の変化を実感されると自然と氣持ちのよい笑顔が出ますね。毎回記録をとっているメニューがあるのですが、ご主人さんの記録がものすごく伸びたので「すごいですねぇ!」と思わず私が言った時に、
「実は・・・こういう運動をやってんねん。」と一言。
身体は正直ですね。適切な刺激を与えれば、細胞はちゃんと反応します。これも「自然治癒力」です。トレーニングは筋肉に負荷をかけて一時的に意図的に「小さな小さな筋肉の損傷を起こす行為」とも言えます。そこから「超回復」という壊れた筋肉を修復する現象が起こり筋力がつくと言われています。その超回復こそ「自然治癒力」です。70代でもやればできる。80代も90代も100歳を超えてもトレーニングによる筋力増強は起こるという事はわかっています。つまり「自然治癒力」は若者の特権ではないという事です。生きている者に当然備わっている「標準装備」です。
その標準装備を備えている「身体」を運転している「意識」という名の運転手。
本来であれば自動的に働くことのできる優秀な標準装備も運転手があえて使わないという判断をすれば機能は鈍化します。運転手が使えないと思っていれば使う氣も起こりませんから、上手に使えるようにはなりません。
とんでもない加速機能を標準装備しているのに使わないのは勿体ない。
自動車の世界は法定速度がありますが、人の身体の変化には法定速度などありません。
自動車の世界の法定速度は危険回避の意味もあるので「法定速度」を定める事にある程度のメリットはありますよね。人間の情報処理能力には限界があるので高速運転であればあるほどミスの確率も上昇し、実際にミスが起こればそれに伴い運転者が他人に迷惑をかける事になりますから。もし人体の変化のスピードに法定速度(本当は出せる能力はあっても出力を制限する基準)のようなものがあったら本人、つまり「身体の運転者」には何のメリットもないですよね。ん?誰かにとってのメリットがあるのかな・・・?
なぜかこの分野にも「法定速度」のようなものがあるのではないか…と心に引っかかっている部分があったので、少し自問してみるとすぐにその引っ掛かりの原因がわかりました。それが「常識というもの」でした。「この怪我は治癒までにこれくらいかかる。」具体的にはこういうものです。
人間の変化のスピードの限界なんてそもそもわからない。みんな遺伝子が違うのだからそれは当然です。それを「人間」という言葉で一括りにして「基準値」という言葉でまた縛り上げる。それらの値もある程度の参考にはなるかも知れませんが、あくまで参考程度であればいいと思います。それを絶対視して「自分」を無理やりそこに当てはめる必要があるのかなぁ・・・?という事はよく感じます(自分の体調と基準値の関係に納得しているならいいんですよ)。「基準値」に基づいた自分の身体の健康評価なんて「例外です。」という言葉がある時点で絶対じゃないってことでしょ。お相撲さんに「肥満ですから痩せて下さい。不健康です。」って言いますか?高血圧の基準値も以前に比べて下がってるでしょ。基準値が変更になった日は、人によっては前日に「健康」だった人が「高血圧」という診断を下されて「病人」になるんです。その人は夜寝て、朝起きただけですよ。そんなものに心を左右され過ぎるのはいかがなものか。「氣にすればいい。でも氣にしすぎるな。」これくらいでいいのではないでしょうか。
なんでもかんでも「歳だから無理?」そんな事は無いと思いますけどね。「歳って何歳からですか?」この質問に明確に返答できる方以外からの「歳だから発言」は基本的に無視でいいと思いますよ。言ってる本人がわかってないんだから、こんな適当で人を傷つけている言葉は無いと思います。
「人間」という言葉で括られた人の集団があるとします。身体の変化のスピードを乗り物のスピードで例えると、その集団の中にはママチャリレベルの人もいれば、ロードバイクの人もいる。自動車の人もいるし、その中にはF1クラスのスピードの人もいる。下手したら戦闘機くらいの人もいる。やってみないとわからないから「ゴール到着までに3か月かかると思っていたら、当日着いちゃった。」って事も起こり得るわけです。「人間」だったり「基準値」ってのはただの言葉で「あなた自身」ではないんですから。「あなた自身」はやってみなければわからない存在です。
ママチャリかと思ってたら、たまに戦闘機レベルの「あなた」がいるからビックリします。
私が飽きずに「人間」を探求しているのはこういう所でしょうね。
今日も良い学びをさせていただいた患者さんに感謝です。ありがとうございました。